乳がん治療の概念

 乳癌に対する本格的な治療は1800年代後半から始まりましたが、医学の進歩に伴い以下のような流れで治療方針の考え方が変わってきました。

1890年頃~1980年頃まで
 乳癌を手術だけで根治しようとする治療が一般的でした。乳房内に出来た乳癌は腋窩(わきの下)のリンパ節を経由して全身に拡がるとする考えに基づくもので、ハルステッド理論と呼ばれています。

1980年代以降
 乳癌は手術に加えてホルモン療法や化学療法などの全身療法により予後を改善することが出来るということが分かりました。この根拠は、乳癌が発生した時点ですでに全身に微小な転移を来たしている、というフィッシャー理論に基づきます。

現在
 癌の根治のためには、局所療法(手術・放射線療法)と全身療法(ホルモン療法・化学療法・分子標的療法)の組み合わせにより治療します。これにより予後がさらに改善することが分かっています。乳癌は初期には乳房内にあるものの、早期の段階より全身に微小な転移を来たすというスペクトラム理論に基づきます。

 現在では手術で乳房内や腋窩(わきの下)の乳癌を取り除くだけではなく、すでに全身に散らばっているかもしれない乳癌細胞を全身治療(薬物療法)により根絶するという考え方による治療が行われます。

乳がんの治療

 乳癌の治療には局所治療(手術・放射線療法)と全身治療(ホルモン療法・化学療法・分子標的療法)があります。手術はあくまで乳癌のできた乳房およびその近傍のリンパ節を切除するだけであり、局所治療となります。放射線療法も全身に放射線を照射するわけではなく、乳房など体の一部分にのみ行うため局所治療となります。それに対してホルモン療法や化学療法、分子標的療法は血液の流れに乗って全身に薬剤が届くため全身治療となります。
 どの治療をどのような順番で行うかは以下の項目を確認しながら決定していきます。

1.診断の確定

 乳癌の診断は、針生検あるいは手術生検の検体を病理医が診断することではじめて確定します。穿刺細胞診と言われる検査で乳癌の診断を行うこともありますが、針生検は穿刺細胞診に比べて診断精度が高く、さらに後述する乳癌のタイプまで確認できるため、当院では針生検による診断を行っています。針生検の結果は2週間程度、さらに乳がんのタイプを調べる検査を追加した場合は、検査後3週間程度かかります。

2.浸潤癌・非浸潤癌の判定

 乳癌は大きく分けると浸潤癌と非浸潤癌(乳管内癌)に分けられます。乳癌は最初に母乳の通り道となる「乳管」の中に発生しますが、進行すると乳管の中を這って拡がっていきます。この状態の乳癌は乳管の外には浸潤していないということで『非浸潤性乳癌(乳管内癌)』といいます。しかし、乳癌はさらに進行すると乳管の中だけに留まらず乳管の外に浸潤していきます。乳管の外に乳癌が一部でも浸潤した場合は『浸潤性乳癌』といいます。
 非浸潤性乳癌はリンパ節転移や遠隔転移を引き起こす能力がなく、手術療法(+放射線療法)のみで治癒が可能です。一般的に再発することはありません。浸潤性乳癌になるとリンパ節転移や遠隔転移を引き起こす能力を持ちます。そのため、通常は手術に加えてホルモン療法や化学療法、分子標的療法など全身治療が必要となります。
※乳癌の進行度(ステージ・病期)は、乳管内進展を含めた乳癌全体の拡がりではなく、浸潤部分の大きさにより決定します。

非浸潤癌は、なぜ手術をしないと診断が確定できないのか?

 乳癌病変の中に一部でも乳管外への浸潤部分があると浸潤癌となります。
 針生検あるいはマンモトーム生検は、病変の一部を切り取り評価することで乳癌の有無を確認する検査です。そのため、浸潤癌であっても非浸潤部分だけが採取された場合は非浸潤癌と診断されてしまいます。針生検あるいはマンモトーム生検で非浸潤癌と診断された場合は、手術を行い病変全体を検査して乳管外への浸潤部分がないかを確認する必要があります。

非浸潤性乳癌であり早期癌なのに全摘手術をすることがあるのはなぜか?

 乳癌の進行度(ステージ・病期)は、乳管の中を拡がっている乳管内病変の範囲ではなく、乳管の外に浸潤している浸潤部分の大きさをもとに決定します。非浸潤性乳癌や浸潤性乳癌のうち浸潤部分の小さい「早期癌」であっても、乳房内で乳管内病変が広範に拡がっている場合は温存手術で癌を取りきることが出来ず、全摘手術が必要となります。

3.乳がんのタイプの判定

 乳癌には進行が速い(悪性度が高い)ものから進行が遅い(悪性度が低い)ものまで、さまざまなタイプのものがあります。また、治療に使用するべき薬剤は乳癌のタイプにより異なるため、治療方針を決める際には乳癌のタイプが非常に重要となります。
(※以前は治療方針を決める際に乳癌の「進行度(ステージ・病期)」が重視されていましたが、現在は「進行度」よりも、「乳癌のタイプ」を重視して治療方針を決定しています。)
 
 乳癌のタイプは針生検や手術検体を用いて判定し、以下の項目により分類します。さらにその分類に基づいて、ホルモン療法や化学療法、分子標的療法などの全身治療を行います。

①ホルモン感受性(エストロゲンレセプター(ER)・プロゲステロンレセプター(PgR))
 ホルモン感受性のある乳癌は、乳癌細胞内のエストロゲン受容体に女性ホルモンであるエストロゲンが結合することで増殖します。乳癌全体のおよそ70%はホルモン感受性があります。ホルモン感受性のある乳癌はエストロゲンの作用をブロックする「ホルモン療法」の効果が期待できます。

②HER2(ハーツー)
 HER2タンパクは乳癌細胞表面にある受容体であり、HER2タンパクを多く持つ(HER2陽性)乳癌は増殖能力(増殖スピード)・悪性度が高いことが分かっています。乳癌全体の10~20%はHER2陽性です。分子標的療法(ハーセプチンなど)はHER2タンパクをピンポイントに攻撃することで治療効果が得られます。HER2陽性乳癌では通常、「化学療法+分子標的療法」が必要となります。

③Ki-67(キー67、ケーアイ67)
 Ki-67は乳癌の増殖能力(増殖スピード)を示す指標です。Ki-67が高いと乳癌の増殖スピードが速くなり悪性度も高くなります。一般的にKi-67が20~30%以上である場合「高値」としますが、まだ世界的な基準は決まっていません。Ki-67は特に「ホルモン感受性あり・HER2陰性乳癌」において、ホルモン療法に加えて化学療法を追加するべきかどうかの指標として重要となります。

    ホルモン療法 化学療法 分子標的療法

Luminal A
(ルミナル A)

Luminal A-like
・ER陽性かつHER2陰性
・Ki-67低値かつPgR高値

 

Luminal B
(ルミナル B)
(HER2 陰性)

Luminal B-like
(HER2陰性)
・ER陽性かつHER2陰性
・Ki-67高値または    PgR低値

 

Luminal B
(ルミナル B)
(HER2 陽性)

Luminal B-like
(HER2陽性)
・ER陽性かつHER2陽性
・Ki-67・PgR低~高値

HER2 type

・ER・PgR陰性かつ   HER2陽性
・Ki-67低~高値

 

Basal-like

Triple negative
(トリプルネガティブ)
・ER・PgR陰性かつ  HER2陰性
・Ki-67低~高値

   

※腋窩リンパ節転移個数が多い時など、再発リスクが高い場合は化学療法を追加します。

4.乳房内での乳がんの拡がりを判定

 乳房内での乳がんの拡がりは術式に影響します。乳癌の乳房内での拡がりを確認するためには、MRIの精度が最も高いと言われています。超音波やマンモグラフィでは小さな乳癌と思われていたものが、MRIを行ってみると思いのほか乳房内全体に拡がっていることもあります。乳房内での乳癌の拡がりを確認することで温存手術が可能か、それとも全摘手術が必要かどうかの術式の決定を行います。

5.遠隔臓器への転移を判定

 乳癌は通常、腋窩(脇の下)リンパ節までの転移であれば完治を目指すことが出来ます。しかし、肝臓や肺・骨といった遠隔臓器への転移がある場合は完治が難しく、ホルモン療法や化学療法、分子標的療法などの全身治療が治療の中心となり、原則として手術は行いません。CTや骨シンチなどの検査により遠隔転移の有無を確認し、完治を目指せる状態であるか、手術適応となるかを確認します。(乳癌が小さい場合、遠隔臓器への転移はほとんどありません。そのため比較的早期の乳癌と考えられる場合は、CT・骨シンチなどの検査を省略することがあります。)

6.併存疾患の評価

 治療方針を決める際に併存疾患の有無を確認することは非常に重要です。重篤な併存疾患がある場合、手術や化学療法など体に負担のかかる治療が出来ない可能性があるからです。現在治療中の病気、あるいは以前かかった病気は主治医に伝えてください。心臓や脳の病気、喘息、糖尿病、薬にアレルギーなどは特に重要です。
 また下記に示す内服薬は手術や化学療法、ホルモン療法を行う際に問題となることがあります。お薬手帳を持参し、かならず主治医に確認するようにしてください。
 1)抗血小板薬・抗凝固薬(手術時の出血、薬剤との相互作用のリスクがあります。)
 2)経口糖尿病治療薬(手術や検査の際に確認が必要です。)
 3)エストロゲン製剤(乳癌の再発リスクとなるため中止する必要があります。)
 4)抗うつ薬などの精神科領域の薬剤(薬剤との相互作用のリスクがあります。)